東京高等裁判所 平成5年(ネ)1184号 判決 1996年1月31日
控訴人
大越巖
同
大越淳子
同
大越康之
右法定代理人親権者父
大越巖
同母
大越淳子
右控訴人ら訴訟代理人弁護士
高橋勝
同
中村周而
同訴訟復代理人弁護士
岡田泰亮
被控訴人
国
右代表者法務大臣
長尾立子
右指定代理人
松村玲子
外六名
主文
一 本件控訴をいずれも棄却する。
二 控訴費用は控訴人らの負担とする。
事実及び理由
第一 当事者の求めた裁判
一 控訴人ら
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人は、控訴人大越康之に対し金六三六一万五四四五円、控訴人大越巖及び控訴人大越淳子に対し各金二七五万円及び右各金員について昭和六〇年一二月四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
3 訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。
二 被控訴人
1 主文一、二項同旨
2 担保を条件とする仮執行免脱宣言
第二 事案の概要
本件の事案の概要は、次に加除、訂正するほかは原判決の「事実及び理由」の第二に記載されたとおりであるから、これを引用する。
一 原判決三丁表一行目の「竹田総合病院」を「竹田綜合病院」に改め、同四丁裏四行目の冒頭から同一一行目の末尾までを削除し、同一三行目の「呼気時間」を「吸気時間」に、同六丁裏一一行目の「本件心内修復術後」を「本件心内修復術」に、同一三行目の「心室細動」を「心室細動によるもの」にそれぞれ改め、同七丁表一二行目と一三行目の間に次のとおり加える。
「なお、控訴人らは、原審における昭和六三年一〇月一二日付け準備書面の第二の三(二)において、被控訴人主張の、『本件人工呼吸器は、警報装置を内蔵しており、通常、約三センチメートル水柱ないし約三五センチメートル水柱の気道内圧(呼吸器回路内圧)では警報音を発しないが、気道内圧が右範囲を逸脱した場合は警報音が鳴るようになっている。右警報装置は取り外すことはできず、また、気道内圧を通常の範囲外に設定した場合は、低圧又は高圧のどちらかの警報が鳴り続けるようになっており、実際上の使用が困難となるものである。』との事実を認める旨答弁したが、右は誤りであったから訂正する。
すなわち、本件人工呼吸器を従量式の換気モードで使用する場合でも、吸気圧調節ダイアルの設定(低圧警報レベルの設定)は最大回路内圧より三ないし五センチメートル水柱程度低めに設定し、リリーフ弁(設定した回路内圧以上の圧上昇を防ぐために吸気を逃がす安全弁)の圧は最大回路内圧より一〇ないし一五センチメートル水柱程度高めに設定するものとされているところ、高圧警報レベルは右の吸気圧調節ダイアルの設定値よりも二〇センチメートル水柱高いレベルに自動的に設定されるものであるから(甲第五二号証)、吸気は回路内圧が高圧警報レベルに達する前にリリーフ弁から逃げてしまい、高圧警報は鳴らないものである。」
二 原判決七丁裏一一行目と一二行目の間に次のとおり加える。
「なお、回復室の医師及び看護婦らが、本件心停止発生時における本件ポリグラフの同期音の変化及び警報音に全く気付いていないこと、本件心停止発見時の心電図の血圧波形が心静止の状態であったこと、控訴人康之に現に脳損傷が発生している事実からすれば、本件心停止は右の医師及び看護婦らがこれを発見する数分前に発生していたものと推認される。」
三 原判決八丁表一〇行目の「本件心停止」を「本件心停止の原因」に改め、同一〇丁表三行目と四行目の間に次のとおり加える。
「(3) 本件ポリグラフのモニター画面における血圧表示の異常がモニター回路の故障によるものであった場合は、心停止が発生していないのに心臓マッサージを行うことになり、これによって逆に控訴人康之を心停止に追いやる危険性があるため、最初にモニター回路の故障の有無を確認する必要がある。
したがって、渡辺医師が本件心停止発見後最初にモニター回路の点検をしたことをもって、心蘇生術の開始に遅延があったとはいえない。」
四 原判決一〇丁表四行目と五行目の間に次のとおり加える。
「(一) 控訴人らの主張
(1) 控訴人康之(合計六三六一万五四四五円)
控訴人康之は、本件心停止に基因する不可逆的な脳損傷により四肢麻痺等の体幹機能障害を負い、かつ、知能低下及び精神機能の障害を生じた。右機能障害は後遺症第一級に該当する。
① 逸失利益一五九八万四三〇九円(控訴人康之には基礎疾患〔大血管転移症による心臓の機能障害〕が存在し、これによる労働能力喪失率は五〇パーセントであるから、右機能障害による労働能力喪失率を五〇パーセントとし、六七歳まで就労可能として計算)
② 後遺障害等による慰謝料二〇〇〇万円
③ 看護手当二一八五万一一三六円(月額六万円とし、74.78歳の平均余命まで生存するとして計算)
④ 弁護士費用五七八万円(右①ないし③の合計金額の約一割)
(2) 控訴人巖及び控訴人淳子(合計各二七五万円)
① 慰謝料各二五〇万円
② 弁護士費用各二五万円
(二) 被控訴人の主張
控訴人康之におおむね控訴人ら主張のような障害が生じたことは認めるが、控訴人らの損害額の主張はすべて争う。」
第三 当裁判所の判断
当裁判所も、控訴人らの本訴請求はいずれも理由がないものと判断する。その理由は、次に加除、訂正するほかは原判決の「事実及び理由」の第三に記載されたとおりであるから、これを引用する。
一 原判決一〇丁表七行目の「二六」を「二七」に改め、同八行目の「乙」の次に「一四、」を、同九行目の「三四、」の次に「鑑定人諏訪邦夫の鑑定結果及び同人の証言、」を、同丁裏四行目の「保発八」の次に「、」をそれぞれ加え、同六行目の「救急蘇生器」を「救急蘇生装置」に、同一一丁表四行目の「一般状態」を「全身状態」に、同一〇行目の「一般状態」を「血圧等」に、同一二行目の「本件人工呼吸器は、」から同一三行目の「スイッチはなく、」までを「本件人工呼吸器は、警報装置を内蔵しており、気道内圧が設定された高圧警報レベル及び低圧警報レベルを逸脱した場合は警報音が鳴り続けるようになっており、右警報装置をオン又はオフにするスイッチはなく、」に、同丁裏五行目の「投与を受けた」を「投与を大量に受けた」にそれぞれ改め、同九行目の「原告康之」の前に「また、心不全の一つの目安である中心静脈圧についても、」を加え、同一二行目の「数値」を「高い数値」に、同一二丁裏六行目の「泣くと」から同八行目の「引き上げられた。」までを「泣くと上半身にチアノーゼが見られ、動脈血中酸素分圧が一三三ミリメートル水銀柱に下がってきたため、四〇パーセントまで漸次低減されてきていた吸入酸素濃度を八〇パーセントに引き上げた。」にそれぞれ改め、同一二行目から次行にかけての「吸引をした。」の次に「東樹看護婦も、看護記録上、少なくとも同日午後八時すぎに二回、同九時ころに一回、控訴人康之の喀痰の吸引をした。」を加え、同一四丁表一行目の「異常のないことを確認し、」を「左右両肺の呼吸音及び血圧等に異常のないことを確認し、」に、同五行目の「同日」を「午後」にそれぞれ改め、同一三行目の「注射薬」から同丁裏五行目の「当時、」までを削除し、同行の「尿」を「尿量」に、同一六丁表五行目の「外側」を「先端に近い部分の外側」に、同六行目の「汚れていたが、」から次行の末尾までを「汚れていた。なお、右気管内チューブの内径は五ミリメートルである。」に、同八行目の「記載」を「記載等」にそれぞれ改め、同丁裏三行目の「記載した。」の次に「なお、同看護婦は、原審において、詰まっているというのは完全閉塞の意味ではなく、たくさん入っているという意味である、また、疾か唾液かあるいは胃の内容物かは目で見ただけでは分からない旨証言している。」を、同八行目の「記載した。」の次に「なお、同看護婦は、控訴人らによって本件心停止の原因が問題とされた後、宮村医師から右の記載について尋ねられ、看護記録のチューブが詰まっていたとの記載を見てそのように書いたと答えた。」を、同一七丁表三行目の「記載をした。」の次に「なお、同医師は、原審において、気管内チューブは閉塞していなかった旨証言している。」をそれぞれ加え、同丁裏四行目の「同日」を削除し、同一三目の「記載をした。」の次に「なお、佐藤医師は、控訴人らによって本件心停止の原因が問題とされた後、宮村医師から右(6)、(7)の診療依頼書の記載内容について尋ねられ、小菅医師の診療依頼書のとおりに記載したと答えた。」を、同一八丁表一一行目と一二行目の間に次のとおりそれぞれ加える。
「(10) 控訴人淳子が、同年一一月五日、控訴人康之に面会した際に、回復室にいた斉藤看護婦に本件心停止の原因を尋ねると、同看護婦は、酸素不足である旨答えた。
(11) 竹田綜合病院の入沢敬夫医師作成の平成元年三月七日付け診断書には、『術後一日に低酸素状態となり、脳障害を発生した』と記載されている。
(12) 控訴人淳子は、本件心停止が発生した日の午後一一時ころ、本件病院の丸山医師から、控訴人康之の心臓が止った時間は三〇秒、多くても一分位なので脳への影響はないと思う、心臓が止まった原因は分からない旨の説明を受けた。
(13) 控訴人巖は、昭和六一年一月六日、本件病院の医師から、本件心停止は不整脈が原因と思われるが、数分間の停止後回復したものの予想以上の脳ダメージがあった旨の説明を受けた。」
二 原判決一八丁表一二行目の「(10)」を「(14)」に改め、同丁裏二行目と三行目の間に次のとおり加える。
「(一三) 鑑定人諏訪邦夫の鑑定結果(以下『諏訪鑑定』という。)によれば、『本件心停止の原因は不明である。心停止前後の病歴の記録からは特定することはできない。気管内チューブに狭窄は存在したかもしれないが、閉塞していたと考える証拠は薄弱である。その他の原因を断定することは不可能である。』とされている。
そして、同鑑定人は、その理由と説明において、気管内チューブの閉塞については、本件の場合、分泌物は心停止前には存在せず心蘇生術の経過中に生じた可能性があることを指摘したうえで、気管内チューブに分泌物が付着していたのは事実と考えられるが、この分泌物のために気管内チューブが完全に閉塞する可能性は大きくはないとし、本件心停止の原因については、不整脈から発生した可能性も否定できないが、これを積極的に支持する根拠もないとして、気管内チューブの狭窄と不整脈の双方、さらには未知の原因が組み合わさって心停止が発生したかもしれないとしている。」
三 原判決一八丁裏三行目の冒頭から同二二丁表八行目の末尾までを次のとおり改める。
「2 控訴人らは、右1(一二)の(1)ないし(11)の事実(ただし、(1)ないし(3)及び(7)については、なお書き部分を除く。)から、本件心停止は気管内チューブの完全閉塞によって生じたか、あるいは、右閉塞により低酸素状態となって頻脈性不整脈が生じ、それが誘因となって発生したものであると主張している。
しかしながら、1(一二)の(3)及び(12)の事実によれば、本件心停止が発生した日である昭和六〇年一二月四日の午後一一時ないし翌五日の朝までの時点では、丸山医師及び渡辺医師は本件心停止の原因は不明であると考えていたこと、同(13)のとおり、控訴人巖は、同六一年一月六日、本件病院の医師から、本件心停止は不整脈が原因と思われる旨の説明を受けていること、同(14)のとおり、同年四月一五日に作成された控訴人康之の看護要約には、『不整脈により心停止となり』と記載されていることからすると、控訴人らが指摘する各事実は、山崎看護婦が、本件心停止後準夜勤務が終了するまでの間に、看護記録に、『突然心停止あり。心マッサージPM開始・気管内チューブコアグラ(+)ゼグレートでつまっている。(後略)」と、当夜の出来事を単に現認した出来事の順に記載しておいたところ、本件心蘇生の現場に立ち会っておらず気管内チューブも現認していない荒瀬原看護婦は、右の記載を見て、本件心停止の原因は気管内チューブの閉塞であると軽信して病棟日誌にその旨記載し、同様に本件心蘇生の現場に立ち会っておらず気管内チューブも現認していない小菅医師も、渡辺医師が記載したカルテや山崎看護婦の記載した看護記録を見て、気管内チューブの閉塞による低酸素症が本件心停止の原因であると誤解して診療依頼書にその旨記載し、斉藤看護婦も同様に誤解して控訴人淳子にその旨答え、また、儀同看護婦は荒瀬原看護婦の病棟日誌の記載を見て、佐藤医師は小菅医師の診療依頼書を見て、﨑村医師は佐藤医師の診療依頼書を見て、それぞれ同様に誤解して前記認定の各記載をしたものと推認されるから、右の各事実をもって、本件心停止の原因がコアグラ(凝血塊)やゼグレート(体内の分泌物のことで痰も含む。)による気管内チューブの完全閉塞によって、あるいは、右閉塞により低酸素状態となって頻脈性不整脈が生じ、それが誘因となって発生したものであると断定することはできない。
また、1(一二)(11)の入沢敬夫医師作成の診断書の記載内容も、いかなる根拠に基づくものか不明であるから、右記載内容から直ちに控訴人らの主張を認めることはできないものである。
3 そして、①東樹看護婦は、少なくとも本件心停止が発生した日の午後九時ころ、控訴人康之の喀痰の吸引をしていること(1(五))、②同日午後九時二四分に行われた控訴人康之の動脈血ガス分析検査では、動脈血中に炭酸ガス蓄積、低酸素血はなく、呼吸状態の異常は認められなかったこと(争いのない事実の7)、③渡辺医師が同日午後一〇時に控訴人康之の定時検診を行った際には、左右両肺の呼吸音及び血圧等に異常はなかったこと(1(八))、④本件人工呼吸器は、気管内チューブが閉塞して気道内圧が高圧警報レベルを超えると警報音を発するシステムになっているところ、同日午後一〇時一〇分ころに本件心停止が発見された際には右警報音は鳴っていなかったこと(1(二)、(八))、⑤控訴人康之に対して心蘇生術を開始した時点では用手的人工換気は何ら問題なくできたが、その七分ないし八分後にアンビューバッグに抵抗を感じたため、気管内チューブを交換したものであること(1(九))、⑥甲第八号証、乙第六、第八号証の各一、二の文献によれば、心蘇生術中に胃の内容物が逆流して気道を閉塞する危険性が指摘されているところ、本件気管内チューブには、胃の内容物の逆流によるチューブの閉塞を防ぐ上で効果のあるカフは付けられていなかったこと(金沢医師の証言、なお、乙第七号証の一、二及び江口医師の証言によれば、幼小児は気管が細いためカフ無しのチューブを使用するとされている。)、⑦仮に、気管内チューブの閉塞により本件心停止に至ったものであるとすると、気道の完全閉塞から心停止まで五分ないし一〇分を要するものとされているのであるから(甲第六号証、乙第九号証の一、二)、東樹看護婦は、五分ないし一〇分間にわたり本件ポリグラフの監視を怠っていたことになるが、重症患者を集中的、継続的に監視することが求められる本件回復室に勤務する看護婦が、それほどの時間監視を怠っていたとは通常では考え難いことなどを総合考慮すると、当初アンビューバッグの抵抗感がなかったから本件心停止発生時にはスピュータム(痰)ないしゼグレートによる気管内チューブの閉塞ないし人工換気を著しく阻害する狭窄は存在せず、心蘇生術開始後、胃の中にあった分泌物や唾液、血液が食道を伝って口腔内に逆流し、それが気道に入って気道内の分泌物や血液とともに気管内チューブに大量に逆流し、人工換気を困難にし、そのためにアンビューバッグの抵抗感が生じた可能性が大きい。
控訴人らは、心蘇生術開始時点で用手的人工換気が問題なくできたとしても、それは気管内チューブを閉塞していた喀痰が右用手的人工換気の圧力によって飛散させられた結果であるから、右の事実から気管内チューブが閉塞していなかったとすることはできない旨主張しているが、前記のような渡辺医師の午後一〇時の検診の結果や警報の不作動等の事実に照らして右の主張は採用できない。
控訴人らは、本件人工呼吸器の警報音について、シーパップ(人工呼吸器に接続されているが、患者は自発呼吸のみで呼吸している状態)では、電気を切って人工呼吸器を使用するから警報音は鳴らないと主張しているが、前記(1(四))認定のとおり、控訴人康之は、本件心停止当時自発呼吸のみで呼吸しておらず、シーパップの状態にはなっていなかったから(甲二、乙二六、渡辺医師、金沢医師の証言)、右の主張は理由がない。
控訴人らは、控訴人康之に対しては、本件人工呼吸器の三種類の換気モードのうち新生児、小児に用いるものとされる従圧式換気モードを使用していたから、高圧警報装置は働かない旨の主張もしているが、本件心停止当時、本件人工呼吸器は従量式換気モードで使用されていたから(証人江口昭治の証言)、右の主張も理由がない。
控訴人らは、警報装置が故障していた可能性もあると主張するが、渡辺医師は、本件心停止発生日の午後零時に本件人工呼吸器に交換した際に、実際に警報音が鳴るかどうかを確認してから使用を開始したものであるから(渡辺医師の証言)、右の主張も採用できない。
さらに、控訴人らは、本件人工呼吸器が従量式換気モードで使用されていたとしても、吸気は回路内圧が高圧警報レベルに達する前にリリーフ弁から逃げてしまうので、警報音は鳴るはずがないと主張している。
本件人工呼吸器の取扱い方法の説明書である甲第一六号証、第一九号証、第五二号証及び第五三号証には、従量式換気モードの使用方法についていずれも控訴人ら主張のとおりに読み取れる記載がなされているが(乙第四〇号証の一六頁も同じ)、乙第四〇号証二二頁の高圧警報装置についての説明図では、リリーフ圧は高圧警報レベルよりも高めに設定するものとされており、また、乙第三九号証によれば、本件人工呼吸器は、回路内圧が高圧警報レベルを超えると自動的に吸気状態から呼気状態に切り替わり、回路内圧が高圧警報レベル以上になることを防止するシステムがとられているので、リリーフ弁の機能を利用しなくても回路内圧が一定の圧力以上にならないようになっていることが認められる。そして、乙第三八号証によれば、本件病院第二外科では、本件人工呼吸器を心臓術後管理に使用する場合は、常にリリーフ弁を閉じて高圧警報装置が作動する状態で使用していたことが認められるから、控訴人らの右の主張も採用できない。
4 次に、乙第八号証の一、二(心臓術後管理マニュアル)には、『突然の心拍停止は、心房中隔一次孔欠損症あるいは心室中隔欠損症など、完全房室ブロックを起こしやすい手術を受けた患者の術後に合併することがある。』と記載され、また、乙第一〇号証の一、二、第一一号証の一ないし三、第一二号証の一、二の各文献にも、心臓手術後にはしばしば不整脈が見られ、患者が重症であればあるほど多くの不整脈を発生することが記載されているところ、前記争いのない事実3、4のとおり、控訴人康之は、心房中隔欠損、心室中隔小欠損を伴った大血管転位症兼肺動脈弁下狭窄症という極めて重篤な心奇形症であり、本件心内修復術は、手術時間が八時間四〇分(人工心肺を用いた血液体外循環時間は四時間五〇分)で、そのうち二時間四九分は人工的に心臓を停止させるという大手術であったこと及び前記認定のとおり、本件心内修復術後、控訴人康之には高度の心不全が存在したこと、本件心停止は前兆もなしに突然発生したものであることからすると、本件心停止は本件心内修復術を契機とする突然の致死的不整脈の結果である可能性が最も高いのであるが、心電図等のこれを客観的に根拠付ける証拠が存在しないから、結局のところその原因は不明であるといわざるをえない。」
四 原判決二二丁表九行目の「右一」から同一二行目の末尾までを次のとおり改める。
「右一のとおり、東樹看護婦は少なくとも午後九時には控訴人康之の喀痰の吸引をしているのであり、本件心停止発生前にはゼグレートによる気管内チューブの閉塞あるいは著しい狭窄があったとは認め難いのであるから、回復室の医師及び看護婦らには控訴人康之の喀痰の吸引排除を怠った過失があるとの控訴人らの主張は理由がない。」
五 原判決二二丁裏二行目の「三、」の次に「二四、五四、」を加え、同一二行目の冒頭から同一三行目の末尾までを「動脈血の酸素飽和度は七五パーセント(通常は九五ないし九八パーセント)、ヘモグロビン量は一デシリットル当たり18.8グラム(通常は一四ないし一五グラム)であった。」に改め、同二五丁裏一一行目の冒頭から同二六丁表九行目の末尾まで及び同一〇行目の「しかしながら、」をそれぞれ削除し、同丁裏九行目の「ところで、」から同二七丁表四行目の末尾までを次のとおり改める。
「ところで、本件ポリグラフの警報装置が右3のとおり何らかの事情により作動する状態に置かれていなかったこと自体は病院側の過誤というべきであるが、これに基づいて被控訴人に損害賠償義務があるというためには、そもそも回復室で勤務していた医師及び看護婦らが本件心停止の発生と同時にこれを認知し、速やかに本件心蘇生を開始していれば、控訴人康之に脳損傷の結果が発生しなかったこと、すなわち行為と結果との間に因果関係が存在することが立証されなければならないことはいうまでもない。」
六 原判決二七丁表七行目から次行にかけての「結果回避可能性はあった」を「本件ポリグラフの警報装置が作動する状態に置かれていなかったことと、控訴人康之の脳損傷との間には因果関係がある」に、同八行目の「心臓手術後」を「心臓術後」に、同二八丁表一行目の「概ね速やかに」を「直ちに」に、同六行目の「概ね速やかに」から同九行目の末尾までを「遅滞なく本件心蘇生術を開始したものであるところ、甲第九号証によれば、心臓マッサージにより循環する頸動脈血流は正常の三分の一ないし四分の一であるが、それだけでも脳組織の障害を防ぐことができることが認められる。」にそれぞれ改め、同九行目と一〇行目の間に次のとおり加える。
「諏訪鑑定も、『病歴において、心停止発見にいたる経過の記録は必ずしも詳細ではない。しかし、比較的短時間で蘇生し、また容易に循環動態が安定した点からみて、発見が特に遅れたとは考えにくい。』としている。
なお、控訴人らは、控訴人康之のカルテの昭和六〇年一二月一二日の欄に、控訴人巖に対する医師の説明内容として『術後一時期血圧のでない数分間があったため』と記載されていることや、同じく六一年一月六日の欄に、控訴人巖に対する医師の説明内容として『数分間の停止後回復したものの』との記載があることから、本件心停止の時間は一分程度ではなく数分であると主張しているが、前記認定のとおり、丸山医師が控訴人淳子に対して、本件心蘇生術終了直後に、心臓が止まっていた時間は三〇秒、多くても一分程度との説明をしているのは、心蘇生術を開始するまでの時間を言ったものとみられるのに対し、右のカルテの説明内容は、心停止が起きてから心蘇生が起きるまでの時間を数分間と表現したものと推認され、控訴人康之の父である控訴人巖に対する概括的説明の一部であって必ずしも事実を正確に記述したものではないと解されるから、右の各記載から心蘇生術開始までの時間が数分に及んだものと認めることはできない。
また、控訴人らは、回復室の医師及び看護婦らが本件心停止発生時における本件ポリグラフの同期音の変化及び警報音に全く気付いていないこと、本件心停止発見時の心電図の血圧波形が心静止の状態であったこと、控訴人康之に現に脳損傷が発生している事実からすれば、本件心停止は右の医師及び看護婦らがこれを発見する数分前に発生していたものと推認されると主張している。
しかし、回復室の医師及び看護婦らが本件心停止発生時に本件ポリグラフの同期音の変化に気付かなかったのは、むしろ、同期音の変化と本件心停止の発見との間にそれ程の間隔がなかったからであるとも考えられるし、心電図の血圧波形が心静止の状態であったことから数分前に致死的不整脈が発生したものとも直ちにいえないし、また、控訴人康之の脳損傷の発生は、後記のとおり、脳の予備力の低下が重要な要因であった蓋然性が高いから、控訴人らの右の主張は採用できない。」
七 原判決二八丁裏二行目の「金沢」を「金沢医師」に改め、同一二行目の「七五パーセント」の次に「、酸素分圧は五〇ミリメートル水銀柱(証人江口昭治の証言)」を、同二九丁表三行目と四行目の間に次のとおりそれぞれ加える。
「諏訪鑑定も、『控訴人康之には本件心内修復術前から低酸素血症の症状が認められ、動脈血の酸素レベルが大きく低下していたことは確実である。医学的には脳の予備力という用語はないが、脳の血流が遮断された状態でそれに耐える能力とか、脳が酸素不足にさらされた状態でそれに耐える能力とかを脳の予備力と呼ぶことは不当ではない。脳の予備力の意味を右のように解釈すると、控訴人康之には、成長の障害、気道感染の反復、心肺系の予備力低下、その他の臓器の予備力低下が存在していたから、論理的推論として、脳血流が低下しやすく、また、脳への酸素供給が障害を受けやすく、それだけ脳の代謝も障害されやすい状況にあったと考えられる。つまり、脳の予備力は低下していた。決定的な結論は不可能であるが、術前の脳の予備力の低下が本件脳障害の発症に関係していた可能性は高い。健康人なら完全に回復する程度の短時間の心停止でも後遺症が残ることは推測できる。』という趣旨の意見を述べている。」
八 原判決二九丁表六行目の「約二六時間後」の次に「(甲第二号証)」を、同一二行目と一三行目の間に次のとおりそれぞれ加える。
「諏訪鑑定も、『決定的な結論は不可能であるが、術後の脳の予備力が術前に比較して低下していた可能性が高い。手術、麻酔、体外循環などは脳に損傷を招く。特に体外循環により脳損傷が発生することはよく知られている。したがって、手術の影響のまだ強く残っている術後第一日の時点では、脳の予備力は低下していたと考えられる。このような術後の脳の予備力の低下が本件脳障害の発生に関係していた可能性は高い。』という趣旨の意見を述べている。また、証人諏訪は、元々心臓の悪い控訴人康之が長時間にわたる心臓の大手術を受け、その間体外循環を施されていたのであるから、心停止がなくても脳障害を起こす可能性もある旨証言し、証人宮村も、本件のような長時間にわたる心臓手術の結果脳に機能障害が残ることもあり得る旨証言し、証人金沢も、本件の大手術と長時間の体外循環を行っていることが脳障害の大きな誘因になっていると思う旨証言している。」
九 原判決二九丁裏九行目の「本件心内修復術前の」の次に「動脈血中の」を加え、同三〇丁表一行目の「主張するが、」から同六行目の末尾までを次のとおり改める。
「主張する。
しかし、血管から身体の組織へ酸素を供給するためには酸素の量と分圧の両方が必要であり(諏訪鑑定人の証言)、動脈血酸素分圧六〇ミリメートル水銀柱以下を低酸素血症というとされているところ(乙第三六号証)、前記のとおり、控訴人康之の動脈血酸素分圧は五〇ミリメートル水銀柱であったから、控訴人康之が本件心内修復術前において低酸素血症の症状を呈していたことは明らかである。
なお、乙第三六号証によれば、低酸素血症に陥ったとき、生体はまずこの負荷を代償しようとして各臓器の機能を昂進させてこれに対抗するが、酸素不足の状態がそのまま継続したり、さらに悪化すると、やがて代償機能は衰えて、その後は低酸素血症の直接的な抑制作用が著明となり、各器官の機能抑制が現れてくるとされている。」
一〇 原判決三〇丁表七行目の「鑑みると、」の次に「本件においては、」を加え、同一〇行目の「発生しなかった」から同一一行目の「認める」までを「発生しなかったことを認める」に、同一三行目の「以上によれば、」から同丁裏一一行目の末尾までを次のとおりそれぞれ改める。
「以上によれば、本件ポリグラフの警報装置が作動する状態に置かれていなかったことと、控訴人康之の脳損傷との間に因果関係があると認定することはできない。
また、控訴人らは、回復室で勤務していた医師及び看護婦らには、本件ポリグラフの画面表示の監視及び同期音の聴取を怠った過失があると主張しているが、本件ポリグラフの画面表示の監視及び同期音の聴取を二〇秒ないし三〇秒間しなかったとしても、それが過失に該当するとはいえないし、また、右の各行為と控訴人康之の本件脳損傷との間に因果関係があることを認めることができないから、控訴人らの右の主張も理由がない。」
一一 原判決三一丁表一一行目の冒頭から一三行目の末尾までを次のとおり改める。
「本件心蘇生術の開始に遅滞はなかったものというべきである。渡辺医師が本件ポリグラフのモニター回路の点検を行ったことも、その所要時間が秒単位のものであったこと及び心電図モニターのオシロスコープ上のまっすぐな軌線は、コード末端の電極が患者の体表面から離れている場合であることの方が多いことからして(乙第八号証の一、二)、不必要、不適切なものであったとはいえない。
諏訪鑑定も、『病歴において、心停止から蘇生にいたる経過の記録は必ずしも詳細ではない。しかし、比較的短時間で容易に蘇生し、また容易に循環動態が安定した点からみて、蘇生が適時でなかったとは考えにくい。』という意見を述べている。」
一二 原判決三一丁裏五行目の「発生」から同八行目の末尾までを「発生しなかったことを認めるに足りる証拠がない以上、被控訴人に損害賠償義務はないものといわざるをえない。」に改める。
第四 結論
以上の次第で、控訴人らの本訴請求を棄却した原判決は相当であり、本件控訴はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 加茂紀久男 裁判官 鬼頭季郎 裁判官 林道春)